「尚徳会」由来

設立趣意

財団法人尚徳会は日本伝統の諸道(武道・茶道・華道・作法等)の修練を通じ、青少年の礼儀・作法による“しつけ”教育、情操教育に重点を置きつつ、心身を錬磨し、文武併進の精神を体得し、もって社会有用の、人材を育成することを目的としている。

共立学舎(明治7年〜明治31年)

明治7年旧鳥取繕士有志が、子弟に「文武を講習させ、識見を広め、筋骨を強くし、国家寓分の一に報ずる」 目的をもって、共立学舎(館長・角田安処)を設立した。旧藩主池田慶徳公は学舎の用地(現久松幼稚園敷地・周辺約500坪)として藩邸(旧西池田家)の一部を使用することを許し、年額3000円の図書費を与えた。学舎の教育・指導には有識の士が当ったので、多くの人材が輩出した。

因伯尚徳会(明治31年〜昭和19年)

明治31年6月因伯尚徳会(会長・河合与七郎)と改称。剣道・柔道・弓道・槍術を演武場で教授した。明治39年9 月から大正13年7月まで、久松幼稚園が同一建物内に同居して幼児教育を行ない、また、明治42年3月から昭和18年9月まで、造士学舎が演武場を夜間使用して、勤労青年教育を行なった。昭和18年9月鳥取地方に大震災がおこり、演武場は半壊、翌年正月の降雪によって倒壊した。

尚徳練武館(昭和19年〜昭和25年)

由緒ある道場が廃絶することを憂えた太田義人(因伯尚徳会・大正7年8月入門)は私財を投じて道場を再建。昭和19年3月25日落成・尚徳練武館と称した。しかし、昭和20年8月敗戦となり、剣道は禁止された。太田義人は剣道復興の日に備えて、道場を残すため種々工夫を凝らし、懸命な努力を続けたが、ついに、昭和25年4月道場を久松幼稚園愛育会に譲渡しなければならなくなった。しかし、周辺に残存した共立学舎の土地を畠とし、道場再建の日に備えた。

尚徳錬武館(昭和36年〜現在)

昭和26年9月9日鳥取県撓競技連盟(剣道連盟)が設立されたが、道場を再建するまでには至らなかった。昭和35年頃になると、道場再建の気運が醸成され、太田義人を中心とする関係者・鳥取西高等学校PTAの協力によって、太田義人が確保した土地に昭和36年6月26日道場を設立。青少年を武道によって鍛錬成就させる意を込めて、尚徳錬武館と称した。しかし、共立学舎の土地名義は創設当時のままであったので、鳥取県教育委員会・因伯尚徳会関係者と協議し、太田義人の強い意向をうけて、教育財団法人を設立し、移行することとなり、昭和39年12月26日財団法人尚徳会(理事長・太田義人)が認可された。昭和38年8月2日全日本剣道道場連盟結成加入。

昭和56年7月30日、尚徳錬武館伝承の旧鳥取藩伝来の剣術雖井蛙流平法(保存会代表者・太田義人)が、鳥取市の無形文化財の指定を受けた。

昭和58年、鳥取県より県庁整備事業に伴う道場移転の要請がおこり、尚徳会と県当局が協議を重ねたすえ、旧西池田家の屋敷内の一隅に移転を決定。昭和59年4月(財)日本船舶振興会の補助金交付が決定したので、関係者有志の援助を得て、同年7月(財)尚徳会の道場ならびに関係建物の建築に着工・同年11月21日落成式を挙行、昭和60年4月28日・29日に竣工記念式典・大会を実施した。

平成5年7月10日・11日尚徳会創立120年記念式典並び尚徳錬武館大会実施。

尚徳錬武館に於ける武道の修練のみにとどまらず、尚徳会内の諸設備で、華道・茶道等情操教育を実施し、共立学会・因伯尚徳会に復帰した運営が図られている。